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コラム

ニューヨーク突撃記 PARTY NYCの挑戦

LAの路面で砂まみれになりながらMVを撮影した話

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エレクトロ・ポップバンド「CUT/COPY」のMVをつくる

NYに来て知り合ったAramiqueというディレクターをやっている友人に誘われて参加した「CUT/COPY」というオーストラリア出身のエレクトロ・ポップバンドの「We Are Explorers」という曲のミュージックビデオが今回の仕事です。

これが今回の主役である「光る3Dプリント人形」。ブラックライトを当てると驚くほど光ります。

日本を出た途端に、いきなり海外ミュージシャンの仕事です。えらいことです。最初は川村とAramiqueが2人で企画をまとめていました。企画は、「3Dプリンタで出力されたキャラクターが街を冒険する映像」という企画でした。もうちょっと細かく言うと、3Dプリンタで出力したフィギュアを使ってストップモーション(コマ撮り)撮影を行い、実写アニメーションにしていく、というアイデアです。

言うのは簡単ですが、準備と撮影がものすごく大変そうなこの企画。私は、一昨年の3D写真館プロジェクト「OMOTE 3D SHASHIN KAN」以来、3Dプリンタ関連の仕事はそれなりに経験してきているので、まずはそのあたりの技術責任者みたいな感じで参加していました。

時間が無い中で、PARTY NYCの3人とAramique、今回キャラクターをデザインしてもらったデザイナーのMauとでストーリーを詰めたり、キャラクターの造形を決めたり、撮影のテストをしたりして、詳細を決めていきました。夜についての歌なので、3Dフィギュアをブラックライトを当てると発光する素材でつくって、妖しく光る小人2人が冷たくて世知辛い夜の街を脱出する、みたいな方向でストーリーボードもまとまりました。

LAに撮影に行ける人間が自分しかいなかった

ここまでは、時間が無いながらも平和でした。

1月、PARTY NYCはなかなか大変な状況になっていました。ニューヨークのクライアントとやっている仕事が佳境を迎えつつ、日本のクライアントとやっている仕事のプレゼンもする必要があり、いくつかの新規案件も進行している、という状況を3人でさばいていく必要があるので、「あー。これはいろいろ賢く進めていかないとやばいなあ」と考えていました。

まず、川村がプレゼンのために日本に帰らなくてはならなくなりました。佳境に差し掛かっているニューヨークのクライアントワークは、細かい英語のコミュニケーションが必要なのもあり、トムがニューヨークで担当する必要があります。

そんな中、このミュージックビデオの撮影をロサンゼルスで行うことになりました。コマをあまり増やしすぎず、アナログ感を大事にした演出にすることにはしましたが、屋外でのコマ撮りです。1日2日では終わりません。一週間は合宿状態で撮影しないと無理、という判断になりました。

では、誰がLAに行って撮るのか。どう考えても私が行くしかない状況になっていたのです。そもそも私は英語がそんなに流暢なわけでもないし、ちょこちょこ相手が言っていることが理解できなくなったりもします。海外で現地スタッフと映像を撮影したことがないので、英語の映像用語もよくわからない。海外の撮影のノリもよくわからない。

「LAに行って撮る」ということだけは決まっているけど、ロケハンなどをしたわけではないし、現地でどんどん場所を見つけて撮るということになるらしい。

そもそもスタッフがいない。いわゆるミュージックビデオなので、そんなに予算が無いのです。AramiqueとカメラマンのSesse、そして私の3人だけでLAに向かうことになりました。普通に考えると屋外のコマ撮りを1週間かけてやるという場合、もっと人数がいないと大変なことになります。

というか、私はコマ撮りなんてやったことがないのです。コマ撮り用のソフトを使って撮ることになったものの、誰もそれを使える人がいない。スケジュールが決まっていない。小道具が決まっていない。それどころか、いろいろあって主役である3Dフィギュアがまだ揃っていない! 仕方がないからLAのプリント業者さんに連絡を取って現地でプリントすることに。それでもそれが上がってくるのは撮影日程の後半…。

ここには書けないような事件もたくさんあったのですが、撮影に向かう前から叫び出したくなるような、日本では信じられないような出来事が頻発し、「これはやばい!」と思っているうちに、LAに飛び立つ日がやってきてしまったのです。どうにかスケジュールを引いて、機材のチェックをして、コマ撮り用ソフトの使用方法を必死でマスターし、ニューヨークに家族を残してLAに飛び立ちました。

次ページ(3/4) 「日本人映像スタッフの顔を思い浮かべて涙した夜」へ続く