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コラム

電通デザイントーク中継シリーズ

「ヒットさせてと言われても」山本宇一×天野譲滋×谷尻誠×石阪太郎 座談会【前編】

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カフェ文化の草分け「バワリーキッチン」誕生の背景

天野:こうしたショップのプロデュースを考える度に、空間からBGM、トイレのブラシまで、細部に気を配っている宇一さんはすごいなと、お世辞じゃなく思います。そうなりたいと思って、自分なりに取り組んでいます。

山本:さまざまな事例を聞いていて、実は僕がしてきたことは対極にあるような気もします。僕が1軒目につくった駒沢公園の近くにある「BOWERY KITCHEN(バワリーキッチン)」は、26坪ほどの小さなお店で、今年6月で20年になりました。ここは誰かに「ヒットさせて」と言われて始めたわけではなく、自分の生活のためにつくった店です。

山本宇一
1963年東京生まれ。都市計画・地域開発などのプランニングに携わった後、飲食業に転身。
97年6月駒沢に「BOWERY KITCHEN」をオープン。表参道「LOTUS」「MONTOAK」に加え、「DEAN&DELUCA」日本の総合プロデュースや、「marunouchi HOUSE」などを手掛けて活躍は多岐にわたり、現代の東京のカルチャーをけん引する。

石阪:オープンキッチンのカフェの草分け的な存在として、知られています。

山本:当時のカフェといえば、籐のイスを並べるヨーロピアンなカフェが主流でした。「バワリーキッチン」は“アンチカフェ”をコンセプトに、インテリアデザイナーの形見一郎さんと一緒につくったんです。

当時のカフェ店内は茶色が使われることが多かったので、あえて白のステンレスと黒いプラスチックのモノトーンにしました。カフェとは真逆の発想からつくった店舗が、今や「カフェの源流」と言われていることに驚きます。

石阪:茶色を使ったカフェが成功している中で、なぜ真逆がいいと思ったんですか。

山本:当時、僕は30代でしたが、自分の世代から“老舗になるような新しい店”をつくろうと思ったんです。イメージしたのは、自分が子どもの頃に行った、プラスチックのテーブルに緑色のビニールのイスが置いてあって、納豆や豆腐がメニューに並ぶような食堂です。その原体験を、自分のフィルターを通してつくったのが「バワリーキッチン」でした。

石阪太郎
電通ライブ執行役員

1989年電通入社。入社以来、一貫してイベント、展示会、ショールーム、店舗開発、博覧会を手掛ける。コミュニケーションデザイン視点の空間開発、エクスペリエンス領域のクリエーティブディレクター的スタンスで多くの作品を残す。近年はテクノロジーの導入を通じて、本領域の次世代化を推進中。

オープンキッチンも少ない人数でお店を切り盛りするために、厨房で作業しながら店内が見渡せるようにした、というのが生まれた背景です。

石阪:機能性を追求した結果に生まれたのが、オープンキッチンだったんですね。でも、それを意匠的に優れていると、多くの人が感じました。

山本:結局、スタイルやサービスの在り方は、自分の必然から生まれるんでしょうね。例えば、普通は梁の下に天井を貼りますが、「バワリーキッチン」はお金がなかったので、天井の躯体に直接照明をつけました。これも必然から生まれたことですが、結果的にウケました。

全国から同業者が来て、「バワリーキッチン」のディテールや雰囲気を持ち帰って、自分なりの店舗をつくっていった。だから同じオープンキッチンでも、僕の店とは違う存在なんだろうと思います。それが結果的に、カフェ文化を形成したのかなと思っています。

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