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コラム

「広告」から「クリエイティビティ」へ【ACCプレミアムトーク】

ACC賞審査委員長対談 多田琢氏(フィルム部門)×菅野薫氏(ブランデッド・コミュニケーション部門)

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テクノロジーと広告

多田:本音で言うと「ACCって部門多すぎない?」というのはあるんだけど、前向きに考えると部門が多ければ価値観も多様化するわけだよね。今までは広告の代表格みたいに扱われていたけど、フィルム部門はフィルム部門で純粋なコアの部分での表現競争をする部門として捉えることもありかな、と。テレビCMの勢いはかつてのようではなくなったと言われるけど、それはメディアの力とコンテンツの力をごっちゃにした短絡的な判断。

メディアがなんであろうと、映像コンテンツ広告はなくならないし、むしろ進化している。だから部門の多様化によってフィルム部門の価値はなんなのかを再確認するのにはいい機会じゃないかと思ってる。大事なのはコアの部分。最終的にはどんな方法を使ったって、人の感情を動かさなきゃ。感動って方法の新しさとかは関係なくて、人間はそこから絶対に離れられないし、それが人間である理由だから。

そこをどれだけ新しい目線で見られるかというところが人の心を動かす本当の強いアイデアだと思う。それを見つけられたら多様化を凌駕するくらい特化したものになると思う。

人には感動が必要だし、そのことが大好きだし、そうじゃなきゃNetflixがこんなにいくわけない。広告なしの有料コンテンツであそこまでできちゃうということを、証明しちゃってるわけだから。いいコンテンツがあればみんな見ないわけにはいかない。CMだろうとWebだろうと映画だろうと、人は映像コンテンツに感動するということ。それを忘れないで技術や才能を配り続けていかないと、メディアなんてあっという間に変わるんだし、テレビがなくなろうが映像が人の心を動かせるということに変わりはないんだから。そのきっかけとか、コアなアイディアってなんだろうというのを見つけ出して発表できればいいんだけど。

菅野:インターネット以降、テクノロジーによって新しいメディアがどんどん生まれて、圧倒的に表現方法が変わったし、コミュニケーションの方法が多様化したのは事実ですが、回線が速くなった今、結局みんなが見ているのは映像なんですよね。ネットの回線が細い時代はファイルサイズの関係で表現で扱える範囲が限られていて、一回表現方法の探求が原始化したので面白かったんですよね。

ウォルト・ディズニーの時代に戻ったような、最小限のデータでアニメーションの気持ちよさや面白さを手繰り寄せて追求する原始的な快感。テレビゲームでも、扱えるビット数の少ない頃は工夫に溢れていた。

今はリッチなグラフィックスになりどんどんマッチョなレンダリングの戦いになっている。でも、いつだって結局やろうとしていたのは映像なんですよね。回線の速度が速くなって、結局みんなNetflixを見ている。今サイト見れば、トップページにムービーが埋まっている。以前は画像やテキストと最小限のアニメーションでなんとかしていたけど、今はリッチな映像をド頭に貼り付けている。

もちろん、インタラクティブにとか、自己発信したり、コミュニケーションできること、そういう構造の変化に新しい可能性があって、そこが面白いのだけれど、やっぱり手段が映像に集約されてきているなという実感がある。映像が新しいメディアを獲得して進化していっている感じ。インスタのストーリーもそうだし、TikTokもそうだし、映像のいろんなスタイルが出て。カテゴリーをいろいろつくったけど、最終的にはみんな映像で説明するし、世の中に広げているんですよね。

菅野 薫 氏

多田:TikTokだってさ、CMのスキルや機材を使って撮ったらもっと良くなるんだけど、良くないところを面白がっている。今までリッチなもの見てたから、逆に原始的なものを見た時に「これ楽しい」となった瞬間はある。新しいメディアって、2年くらいの周期で登場してピークでいられる時期があるから、また新しいモノができるんだろうけどね。

でも菅野はそういう手法のためのテクノロジーというより、なにかを表現するためのテクノロジーを考えているから面白いよね。あることを伝えるためには今まで誰も分析しなかったものを、テクノロジーを使って解析という軸で表現する、みたいな。それは映像表現がリッチだからできるというわけじゃないじゃない。ある時はそれを計算式だけで表現する、とかね。

菅野:(笑)そうそう、そうなんですよね。僕の場合はね。僕の興味は、生理的な快感と数学的なものにどう関係性を見出すか。アニメーションの世界では、実際の物理現象で起こりえない、摩擦のタガが外れたような状態のモノにみんななぜか快感を覚える。

現実の世界ではすごいスピードで走っていて止まるときも徐々に速度が落ちてピタッと止まるのに、アニメーションではなぜか一回通りすぎてからピッと戻って止まったり。崖から落ちる時に、一回空間に止まってから落ちるとか。当然、現実では起こりえないんだけど、感覚的には共感する。全速力で走っていて崖に踏み出してしまったら、脳内では「あ、やっちまった」って時間があるのではないか、それを表現しているんですかね。

多田:それって、本当にそうなんだろうな。ムービーで撮ったら止まってなくても、感覚としてはそうだったという…むしろそっちが真実なのかもね。

菅野:僕は音楽的な観点で映像を見るんですけど、音楽もBPMはずっと変わっていないのに、感覚的には速くなったり遅くなったりしているように聴こえたりする。音楽も映像も、流れている時間に感覚的な伸び縮みがあって、ゆっくりしているのに速く感じたり。逆もあるし、感覚的には時間が止まったりする。アニメーションでピタッと止まるのも、きっと現実世界でもそういうときに脳の中で一回スローモーションが入るんですよね。感覚的に異常に時間が長く感じる。それを本当に絵にしちゃう。

多田:人間の目がハイスピードカメラみたいに秒間1000コマで見ることができる目があったらそうなっちゃうよ。だから俺たちの見ているのが正しい世界ではなくて、人間の目の機能がそう見せているだけ。解析能力がすごく速くなったらそうじゃないだろうし。

目にアダプターをつけてモノを見る時代がすぐ来る気がする。光の導線なんて肉眼では見ることができないけど、それが存在しないかっていうと存在はしているわけだからね。見えるはずのモノが見えていないし、見ているモノが正しいわけではないと考えた時に、できる企画ってなんだろう。そう考えると映像表現って無限でしょ。菅野はそういうの好きそうだなあ。

菅野:みんな好きだと思います(笑)。自分の中の時間感覚の中ではこうだったという記憶が、物語の起伏に近似している。映像って、そういう感覚を時間の流れがある絵として定着させる。カメラワークとしての視点も同様ですよね。実際そうだったかというより、そう脳は理解しているという絵を獲得する。ドキュメンタリーとフィクションの境界線は曖昧。そういうことをやっているんだなあと思って見ています。

多田:例えばそれがハイスピードっていうだけで企画になるんだよね。「マトリックス」だって、ただスローにすればいいというのは過去のものだけど、人間の能力をもっと物理的に拡大したらこうなるものなんだっていう例として考えられる。それがもしかしたら表現じゃなくて、メディアになったらどうなっちゃうんだろう。ゆくゆくはさ、脳に直接映像が届く時代がくるんじゃない?そしたらメディアなんてなくなっちゃう。

菅野:メディアの語源がそもそも「媒介するもの」ですからね。

多田:直接やりとりされ始めちゃったらさ、仲介産業がなくなっちゃう。

菅野:まず部門どころかACCがなくなりますね。しかし、こんな話でいいんですかね。我々しか盛り上がらない(笑)。

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