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コラム

“推し”が生む圧倒的な熱量と消費―キャラクタービジネスのこれから

追っかけ=非モテの構図は前近代的? 「推し」に見る若者の「恋愛」意識の変化

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【前回コラム】「アイドル戦国時代の変遷 2次元アイドルが市場をけん引する時代へ」はこちら

第5回は、より「推し」について理解を深めるためのちょっと込み入った話。

皆さんは、例えばアイドルの「推し」をどんなふうにご覧になっているだろうか。実際に付き合ったり、結婚したりできるわけでもないアイドルを追いかけるなんて…と思われる方もいるかもしれない。

しかし、「推し」の盛り上がりを考える時、「恋愛」というものの捉え方が、トレンディドラマ全盛期の、たとえばバブル期とは変わってきている…という仮説も成り立つ。今回は、「推し」の市場の盛り上がりから、若者たちの「恋愛」意識を紐解いてみたい。

そもそも「恋愛」とは何なのか。「恋愛→結婚・出産・家族」という、恋愛と結婚と出産を地続きにするものが当然とする近代的恋愛観(よく「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」とも呼ばれる)にとらわれるうちは、「萌え」も「推し」も理解はできないだろう。

「なぜ結婚もできないアイドルの追っかけをするのか?」「貢ぎ続けて、搾取されているだけだろう」「萌えといってもただ非モテが女にアプローチできないだけだろう」、こういった否定的な意見はとても“近代的”な響きがある。

図1はカテゴリーが違いすぎるのでお遊びのような言語比較だが、いずれも人々がライフイベントや趣味として重要といえる言葉を拾ったものだ。それほど現実を映し出すトレンドとしては、納得できる結果にはなっているように思える。

ゲームとテレビが2000年代を通じて減衰していき、代わりに2010年代に入ってアニメが大きく伸びている。こうした消費性向に対して、「リアル」でもある恋愛や結婚は低めを推移しており、2010年代に入って増加傾向だったのはSNSと検索によって「調べる」対象になっていったテクノロジーとの相関性にも思える。が依然として「関心レベル」だけでいうと、アニメ・ゲーム・テレビのほうが上位にあるのだ。

(図1)ライフイベントのGoogleトレンド

いま、SNS社会が恋愛を変えている。体感している人は多いと思うが、若年層は恋愛・性愛を避ける傾向にある。明確なほどに。

例えば、中学3年生の性交願望を調べた「児童・生徒の性に関する調査(日本性教育協会)」統計では「今まで性的接触(性交)をしたいと思ったことがあるか」にYESと答える割合が、1987年男子で86%、96年で68%、2005年で38%、2014年で26%と激減。8割が性交をしたいといっていた時代から、30年で2割強まで下がった(女性の場合は36%/34%/23%/11%)。

コンドーム出荷量も1993年6.3億個、2000年3.5億個、05年3.2億個、10年2.8億個と大きく減少(ただし2010年代はインバウンド需要で4億近くまで回復)。風俗ですら、性的サービスのない「添い寝風俗」が活況を賑わしている今日においては「性交」という男女の象徴的行為が、社会的に求められない時代になってきている。

日本ほどではないが人類全体が“やることをやらなくなっている”傾向は世界的に深まっている中で、実はこれは性愛だけでなく純粋な恋愛についても同様なのである。これはなぜか。『恋愛しない若者たち』(牛窪恵,ディスカヴァー携書,2015)では5つの要因を挙げている。

①バブル崩壊と長引く不況(貧しくなって余裕がなくなった)
②恋愛不良債権の露呈とリスク回避(結婚の経済的責任が重く、稼げないパートナーは魅力的でも選びにくい)
③超情報化社会と行き過ぎたコミュニティ志向(パートナー関係がSNSで透明性が高く、関係リセット・スイッチへの障壁が高い)
④男女平等社会と男女不平等恋愛(平等になっていったはずの男女でも、役割期待があり経済的・精神的に負担がかかりやすい)
⑤超親ラブ現象(親子仲良し)と性のセルフ化・嫌悪化(親同居率の向上と精神的に寛容になった親世代との関係性が心地よく、家を出る選択がしにくい)

これら現象が世界的な事例になっていることから、この5つの要因は妥当なものだろうし、我々は“社会構造的に”自由に性愛・恋愛を楽しめない時代になってしまっている。

30年前の恋愛は「交換」であった。アッシー、メッシーというように性交を釣り餌にせずに男性を使役した猛者もいたが、あくまで男性が請いて女性と褥を共にするという前提があった。しかし、現在のカモフレ(カモフラージュフレンド=恋人のフリをしあう男女関係)、メシフレ、ソフレ(添い寝フレンド=添い寝をするだけの男女関係)といった身体的に近づくか近づかないかの距離感を保つ対象は「お互いの不可侵の線が明確に引かれた安定感」を楽しむものなのだ。

男性側においても女性に手を出すことへのリスクが年々上がっていくなかで「何があってもこの異性とは一線を越えない(それでも異性であり、自分の社会的プレッシャーによる孤独感を癒してくれる)」という「癒し」は男性側にすら必要な時代になってきている。

このように、「恋愛」に対する考え方だけではなく定義さえも時代と共に変化している。50年前は「恋愛→結婚→性愛→出産」であった。恋愛の先には明確に結婚と性愛があり、恋愛は家族をつくるための最初のステップであった。30年前は「恋愛→性愛…結婚→出産」で結婚を緩いゴールに見据えながら、ときに途切れる危うさをもちながら性愛・恋愛に励んでいた。

しかしながら、現代は「性愛/恋愛/結婚/出産」であり、性愛がネットでセルフ消化され、恋愛は性愛すら切り離して楽しまれ、経済的・精神的な安定のための結婚は完全に別腹とし堅実な選択がなされ(同時に選定が厳しいため結婚できない割合はどんどん上がっている)、結婚後に出産はしないという選択肢もとれる(ちなみに200年前の江戸期においては「性愛→恋愛/結婚→出産」でプロの遊郭女性たちとは性愛からはじまる恋愛を楽しみ、結婚はそのまま出産となっていた時代もある)。

「推し」はまさに「性愛/恋愛/結婚/出産」という大分断時代にこそ生まれ出ずる感情なのである。日本社会は歴史的に個人という「主体」が弱く、ある集団に対する所属する「属人」として支援したり、調和していくことをもって自我を置き換えてきた。

そうしたなかで「推し」というのは、差し出がましい自我を置いておいて、代理として「頑張っているアイドル」を男女問わず応援し、その活力を自らのものとするのだ。その瞬間「性愛/恋愛/結婚/出産」の一つ一つに内包されるしがらみから解放され、人々はよりよい人生を「生きなおすこと」ができる。

「推し」は、現実と理想の距離がどんどんと遠ざかる社会において(これは1950年代生まれにも、1970年代生まれにも到底想像できないものなのかもしれない)、複数の現実をコレクションのようにそろえて、「生きている感覚」を回復させる社会的機能を帯びているのだ。