必要なのは「手段」ではなく「目的」の共有 いま、アドバタイザーが「広告」という言葉を定義すべき理由

このタイミングでは、日本で「広告(廣告)」という言葉が使われるようになった明治5年までさかのぼり、語源について調べたり、英・仏・独のそれぞれの言語における言葉の語源についてもメンバーの方たちに共有するなどして、議論を重ねていきました。

例えば、仏語の広告という言葉(la publicité )の語源は英語のpublicに相当するラテン語のpublicus (公)にあることがわかりました。私は原丈人先生の「公益資本主義」の考えにとても共感をしているのですが、広告の世界も株主至上の資本主義に偏り過ぎているきらいもあります。しかし、改めて広告は社会の幸福の総量を増やすために存在しているのだということを確認できました。

また独語ではdie Werbung で、その語源を調べると、自分の目標のために何かを勝ち取る努力をするという意味合いがあることがわかりました。ドイツと言えば、マーケターの方々にはカール・フォン・クラウゼヴィッツの「戦争論」が有名だと思います。彼は、「戦争論」の中で戦争というものを外交の延長であり、最終的な外交の手段である。そして、その戦争を行う目的とは、自分の意思を相手にわかってもらうことなのだ、と。

当然ながらマーケティングは、人をそして社会をより幸せにするための戦いであり、クラウゼヴィッツが言うところの戦争とは全く異なるものです。とはいえ、自分たちの意思を伝え、目標のための何かを勝ち取るというニュアンスは私たちの定義にも盛り込めると考えました。

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