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コラム

パリから作る、日本ブランドの作り方

「メセナ」が持つ本当の意味

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ポンピドゥセンターに特別に作られた受付。

先週あるフランス企業のパーティに出席した。このパーティは年に一度の取引先会社をもてなすためのもので、縁があって私たちも招待された。
場所はポンピドゥセンター。この企業のお客さまのためだけに、夜間、最上階で開催されている「Simon Hantaï」展とホワイエを借りきり、ワインやシャンパン、軽食などをふるまっていた。
日本で、弊社は企業メセナ協議会の会員なので、こういう美術館で行なわれる会にお招きをいただくことはしばしばある。しかし、大体は展示会のオープニングに協賛企業が集まるというような、美術館や展示会関係者のためのパーティだ。このように公立美術館でのプライベートなパーティは、日本では経験したことがなく、いたく感銘を受けた。

今回参加してみて、プライベートなパーティとして美術館を使うことのよさをいくつか感じた。まず、作品の解説員の多さだ。通常美術館では、ツアーのように解説をしているが、今回は主要な作品の前に解説員が立っていて、彼らが丁寧に説明をしてくれた。ここで、来場者は友人と一緒に熱心に耳を傾け、語り合い、お酒だけではなくアートを心から楽しんでいるように見えた。


作品の前で熱心に説明を聞く人々。

日本の大企業でもこのような「感謝会」はある。私も何度か招待を受け出席したことがあるが、美術館で開かれたことは一度もなかった。多くはイベント会場で、ビュッフェスタイルの食事、そして余興として少し前に流行った歌手が歌を歌うというものだった。美味しいものを食べて、ちょっとした余興を見るのは確かに楽しく場が和むのだが、社交辞令的に名刺交換をするだけの日本のパーティと、アートに触れてどう思ったかを語り合う、このフランスでのパーティには大きな差を感じた。

もし、日本の大企業が美術館でこのようなパーティを行なったらどうなるか想像してみた。Simon Hantaïのようなシュールレアリズムの抽象作品展だと特に、多くの人は「なんだかよく解んないね」と言って、出てきてしまうのではないだろうか?そして、説明員がいたとしても、こういうお酒の場で説明に熱心に耳をかたむけ、それを話題に話をするということは、「インテリ」ぶっていると見られて気恥ずかしいと思うのではないだろうか?もし、作品のことを話したとしても「きれいでしたね」とか「大きかったですね」など、当たり障りのないようなことを言うだけで終わってしまうのではないかと思うのだ。アート議論をする「サラリーマン」の姿は想像できない。


最上階のカクテルパーティ会場。

この差は一体どこからくるのだろう?
まず、第一は場所。
日本では、企業が公立の美術館を借りて、パーティをすることは難しい。公共の美術館とは、本来自治体の共有財産であり、それを特定の一企業だけが独占することは認められないと考えられている。しかし、日本の美術館は現在予算が絞られ、財政的に窮しているにもかかわらず、プライベートな貸し出しに踏み切ることができない。それはなぜか?「公」のものをたとえ短時間であっても「私」が独占することに対する嫌悪感があるからではないかと思う。

私は大学院在籍時に、公立美術館の財政問題を研究するため、財務諸表を取り寄せたことがある。自治体に連絡し、大学院の研究のために財務諸表の開示請求を出したのだが、結局のところいろんな理由を付けられて、すべてを見せてもらうことはできなかった。「公」のものであるにもかかわらず、情報は開示されていなかった。

このような状態は世界ではめずらしい。フランスでもアメリカでも、館長の給与もふくめて財務諸表はサイトで公開している。日本の役所は「公」のものだから、あなただけに情報を公開できないという。美術館は財務も含めてブラックボックスにしている。ブラックボックスにすることで、見かけの「公平」を装っているように思える。だから、見た目に派手な企業からの寄付も受けられないし、特別の待遇もすることができない。みんなが一緒、同じであるべきという感覚がある。

第二に、パーティの存在意義。
このようなパーティは日本でもフランスでも、普段仕事で接している人たちと、より打ち解けるという目的があると思う。ただ、この打ち解け方が違う。
フランス人はお互いに考えをぶつけて、自分自身をさらけ出すことで、打ち解けようとする。日本人は、この衝突をなるべく避けようとする。だから、あまり自分の意見を言わないほうがいいと考える。もし意見が食い違って仕事に差し障りがあるようなことになったら一大事だ。だから、名刺交換と当たり障りないことだけを話す。つまり、フランス人はそれぞれに意見が違うのが当然だと思っており、日本人は意見が一緒だということが当然だと思っている。この前提の差は大きい。日本の悪しき同調圧力を感じずにはいられない。

この同調圧力があるコミュニティでは、きっとアートは根付かないだろう。アートとは多様性を認め合うための社会的構造だ。経済的に「役にたつ」ことが無くても存在を認めることこそ、アートを支える根幹である。
フランス企業の美術館でのパーティは、その支援の心(メセナ)を深く感じた。日本で本当の意味で、メセナが根付くのは、まだまだ先のことに思えてならない。