スダラボ視点のカンヌ観察日記(6)

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前回の記事「スダラボ視点のカンヌ観察日記(5)ーーカンヌとは「時間」である。または、なぜネットで見れるのにわざわざカンヌに来る必要があるのか?」はこちら

YouTube時代の映画祭。または、スマホ時代のビッグシアターとは?

6月20日(金)朝

博報堂 i-ディレクション局シニアクリエイティブディレクター
須田和博

昨夜は、博報堂DYMP全グループおよびご縁のある方々をお招きしての、大懇親会が開催された。ありがたいことに関係会社、競合会社のVIPも来ていただけて、ものすごい人数であった。ご挨拶できた方も、出来なかった方もいた。毎度のことながら、カオス・パーティーなので、ご勘弁ください。

さて、毎朝むりやり書いている「カンヌ日記」も、あと2回くらいとなった。ちなみに「カンヌ日記」といいながら、ナカミの8割は常々考えていることで、今回のカンヌのネタは導入の2割くらいなのは、賢明な読者の皆さんはすでにお気づきのことと思う。

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連載が続くにしたがって、だんだん好評な反応をいただけるようになって、ありがたい。インタラクティブ職なので、特にオンラインで反応をいただけることが一番の励みになる。

今日、ざっと書くのも、セミナーや贈賞式で満員の「グランド・アウディ」会場の片隅で、ずっと思ってたことから端を発したものだ。

会場の観客の大半、いやほぼ全員が、各自の席でスマホもしくはモバイルPCを起動させて、講演者やスクリーンや贈賞ステージを見ている。ブラウザーに映ってるのは大半が「Facebook」か「Twitter」か「メーラー」だ。

自分自身もそうであった。ゴールドをいただいた直後に、戻った座席の暗がりでトロフィーを手にした写真を撮ってもらい、すぐそれをFacebookに上げた。これには理由がある。

前回、パタヤのアドフェスで大きな賞を連続していただいた時、タイミングを逸してしまって、自分でFacebookに投稿しなかったら、なんとなく「知ってもらえなく」て、微妙に受賞した実感を「感じ逃し」てしまった、という経験をした。だから、今回はタイミングを絶対に逃さず、とにかく急いでさっと上げた。

この「自分で上げないと知ってもらえない」感じ、「微妙に実感を得にくい」感じというのが、実は重要なポイントだな、と思う。

我が師、ジャン・リュック・ゴダールの70年代の名作に「こことよそ」というタイトルがある。学生時代に一生懸命に見た。これに倣って言うならば、「いま」という時間には2つ場所がある。「いまココ」と「いまヨソ」だ。

スマホとソーシャルメディアの普及と合体で、このふたつ「いまココ」と「いまヨソ」がくっついた。オーストラリアの辞書の「ファビング」の事例じゃないけど、「いまココ」にいながら「いまヨソ」を大事にしてしまう習性が新たに人間に発生している。だが、それをただ「ダメだ」というのでは、現象の本質は見えない。

自分自身も、わざわざやって来たカンヌで、貴重な体験時間であるはずの「アワードセレモニー」を話半分に聞きながら、とりいそぎ「ゴールドいただきました!」という投稿をFacebookに上げていた。それは、なぜなのか?

それは、「いまココ」=ネタ、「いまヨソ」=つながり先、だからである。

いまここで得たネタを、つながり先のみんなに知らせたい。それはヒトの本能であろう。承認欲求を満たしてくれるネットワークに、自分が捕まえてきたネタを伝えて「いいね!」と反応してもらいたい。人間はそのために生きている。人間はそういうことのために「コミュニケーション」というものをしている。

YouTubeの時代に、映画祭を運営することは難しい。人々は「パブリック・スクリーン」を一緒に見るということはせず、それぞれの「てのひらスクリーン」をバラバラに見ている。そうなった時に、大きなスクリーンに何を映したらいいのだろう?てのひらスクリーンの時代に、どうやって巨大シアターに大勢のヒトを集めたらいいのだろう?それとも、もう集めなくてもいいのだろうか?

カンヌには、わかりやすく全世界から情報先端層が集まって来ている。だから、会場のグランド・アウディのやや高い席から俯瞰すると、世界のいまがミニチュア化されて見える。

カンヌはもともと「コマーシャル・フィルム」フェスティバルだった。この会場に来て、各業種別の「ショートリスト」のフィルム群をまとめて見ることは、ここでしか出来ないスペシャルなことだった。いまここに来て、それを熱心に見るヒトはあまりいない。

何年か前は、チタニウムの「ケース・ビデオ」をすべて上映するホールで、ずっとそれを見続けるというのが、ここでしか出来ないスペシャルなことだった。熱心な参加者はビデオカメラでスクリーンを複写して、貴重な資料として自国に持ち帰っていた。ほぼすべてのケース・ビデオが、実施実績としてYouTubeやVimeoに上げられるようになって、その行為も消えた。

いまカンヌという「ココ」に来ている人々が、熱心に見ているのは「セミナー」という「ライブショー」だ。これももすぐにビデオアーカイブに上がりはするが、それでも「いまワタシ、コレを見ている!」ということはリアルで、つながり先のフレンドに対して「希少価値」を持つネタになる。

パブリック・スクリーンの時代には、世界各国の貴重なフィルムを集めて映すことでヒトを集めた。てのひらスクリーンの時代には、貴重なライブショーでヒトを集め、かつ参加者各自で全世界に広めてもらうようにとりはからう。(その割に会場のWiFiが非力だが・・・)

この戦略は正しいと思う。カンヌには2つの側面(収入源)がある。ひとつは、応募を絶やさず増やし、エントリー収入を増やす。このために年々カテゴリーが増えている。もうひとつは、来訪を増やし入場券収入を増やす。このために、ここでしか見られない「セミナー」というライブショーを充実させている。

「希少性」が価値を持つことは、時代が変わっても変わらない。ただし「何が稀少か?」は、時代と共にどんどん変わる。

「仲間に認められたい」という承認欲求は、時代が変わっても変わらない。ただし「何を連絡経路にして認めてもらうか?」というメディアやツールは、時代と共にどんどん変わる。

その時に、連絡の経路としてFacebookやTwitterなどのソーシャルメディアが有効な働きをする。その「ネタ装置」と「伝達装置」のそれぞれの進化を、わけてとらえることが重要だと思う。「見たい、知りたい、伝えたい」というヒトの行為の普遍を、ふまえた上で。

お伊勢参りに行って、お土産をもって帰ってきて「いってきたよー」と仲間にいう。旅先から絵はがきを出す。その行為は昔から変わらない。ただし「いまココ」と「いまヨソ」の距離は時代と共にどんどん極大化し、そして「いまココ」と「いまヨソ」との連絡の時間は時代と共にどんどん極小化している。

「もと冥王星」だった星に行く時代が来ても、「もと冥王星なう」って、宇宙服の手袋の中で投稿してると思う。地球だか火星だかにいるフレンドに。この連載日記も、まさに同じようなもの。

(つづく)

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