コラム

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フィルム写真が“インスタ映え”する本当のワケ。 — #3懐かしい未来の法則

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【前回の記事】「近くに味方がいなければ、つくればいい。 — #2日用品の救世主化の法則」はこちら

近年、「写るんです」などのフィルムカメラが若者の間でリバイバルブームになっている、というニュースを目にしたことはありませんか? かくいう僕もプロフ画像にあるように、フィルム写真を撮るのがここ最近のマイブーム。

(たとえばこんな感じ)

また、「写ルンです」だけでなく、ラジオ、ハイウエストパンツ、アナログレコードなどなど、「懐かしのあの〇〇がリバイバルブーム!」という現象がここ最近増えている実感はないでしょうか。

僕もきっと、「写ルンです」を発端としたフィルムカメラブームの渦中のひとりなのでしょう。わざわざ今は販売されていないフィルムカメラを入手し、お金をかけてフィルムを買って、写真を現像しに写真店へと足を運びます。一見するとあまりにも非効率なこの行為ですが、さらにわざわざ写真をデータ化してインスタにアップすることで、人とはちょっと違う風合いの写真、持ち物、行いを通して“いいね”をもらうことで、承認欲求を満たしています。手間ひまかけて写真を手に入れる行為は僕ら世代にとって「逆に新しい」し、それによって思い入れも強まるので、“いいね”と思ってもらえる気持ち良さもちょっとだけ格別です。

それは、フィルムカメラが登場した当時では満たせなかった価値なので、ある種現代だからこそ得られる「現代価値」とも言えるでしょう。

過去の懐かしい流行ネタが、現代になって新しい文脈で価値を再発見されたり、あるいは今風にアレンジされたりすることで、古くて新しいブームや文化が生まれる傾向を「懐かしい未来の法則」と呼ぶことにしています。

ですが、フィルムカメラで撮るようになったことで、今まで見落としていた価値にも気がつくことができました。たとえば、フィルムで撮った写真はその性質上、画素がどうしても荒くなるのですが、だからこそ、画素が良くなりすぎた今のカメラには決して表れない“味”みたいなものが写真に浮かび上がります。そしてそれはどこか、「記憶の中の風景」にも近い、と思うのです。

もちろん、写真は画素が良いほうが「現実の風景」に近づきます。ですが、その現実を見た後に「人の記憶の中に残る風景」は、写真を撮った時の心模様も相まって、現実よりも少し色褪せていたり、鮮やかだったり。いわば“思い出補正”のようなものがかかっている気がします。そして写真は、時代に合わせて様々に役割と価値を変容させていますが、根本的な「残す」「思い出す」という価値においては、思い出補正がかかっていたほうがより強く正しい気もするのです。これが僕の思う、フィルムカメラの「本質価値」です。

思えばインスタで“いいね”の多い写真って、デジタルでも色褪せていたり、極端に鮮やかだったりするものが多くないですか?いわゆる「加工」がなされているわけですが、フィルム写真にはもともとそうした性質があるので見る人の記憶をくすぐります。窮屈な現実からは目を逸らして、記憶の中でデフォルメされた虚構現実を見て癒やされている、という見方もできるかもしれません。

(余談ですが、映画「君の名は。」で描き出される映像もまた、極限までデフォルメされた鮮やかで美しい虚構現実を呈示してくれるからこそ、あそこまで大ヒットしたのではと僕は感じました)

加えて、フィルムカメラにはさらに別の価値もあるのでは、と最近思うようになりました。それは、撮影を通して「いま目の前の風景に集中」させてくれる、というもの。これがスマホだったら、すぐに写真をチェックし、それを加工してSNSにアップし、さらにその反応を気にして…と、先の未来を想像してしまうかもしれません。過去にアップした写真を見返し、より良い“インスタ映え”を目指して何度も撮り直してしまうかもしれません。

思えばこのように、現代人は過去や未来に思いを馳せては悩むことの繰り返しで“いま目の前のことに集中できていない”ようにも思います。その点、フィルムカメラの「いま目の前のことに集中」させてくれるという作用は、隠れた「現代価値」であり「本質価値」かもしれません。

こうしてみていくと、「写ルンです」を発端としたフィルムカメラブームの背景には重層的な価値が潜んでいるようにも思えます。だからこそ、一過性で終わるのではなく、息の長い文化へと生まれ変わるかもしれません。単に過去の懐かしい流行ネタに目をつけるだけでは片手落ちで、それを現代に立ち上がらせることで生まれる「現代価値」や「本質価値」をおさえて、はじめて懐かしい未来を描けるのではないでしょうか。

次ページ 「ついでに、バブリーダンスの流行にも触れてみると。」へ続く

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