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コラム

エクストリーム就職相談 〜世界で活躍する⽇本⼈クリエイティブに聞け!〜

第3回 スケーターたちと世界を飛び回る「プロフェッショナル・ハングアウター」、RIP ZINGERという生き方 

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「エクストリーム就職相談 世界で活躍する⽇本⼈クリエイティブに聞け!!」第3回に登場していただくのは、ハワイを拠点とするRIP ZINGERさん。スケートカルチャーに魅せられて、14歳でハワイに大会を見にいき、その後、自ら道を切り拓いていった。現在はプロのスケーターやスノーボーダーたちと世界を回りながら、その姿を撮影する写真家として、これまでに3冊の写真集を出版。さらにエクストリーム スポーツ系ブランドの広告でも活躍している。そんなRIP ZINGERさんは、自身の職業を「プロフェッショナル・ハングアウター」と語る。
【前回はこちら】第2回 フランスの映像業界で多様性を支持する団体を立ち上げた撮影監督・小野山要(後編)

写真 人物 個人 RIP ZINGER氏

RIP ZINGERさん

職業:写真家/プロフェッショナル・ハングアウター*
拠点:ハワイ、アメリカ合衆国
* ハングアウター(俗語) :一緒に時間を過ごす人、遊人、ブラブラする人

スケートカルチャーに魅せられ、14歳のときに一人でハワイへ

——RIPさん、初めまして。この連載は『エクストリーム就職相談』というタイトルでやらせてもらってるんですが、リップさんほど「エクストリーム」な方はいないと思い、今回取材を依頼させていただきました。お受けいただき、ありがとうございます!

だいぶ枠外な気がしていますが(笑)、よろしくお願いします。

——早速ですが、リップさんといえば、トニー・ホークさん、ロブ・マチャドさんやトミー・ゲレロさんなど、 スケーター・スノーボーダー・サーファーといった、いわゆる”横ノリ系”の一流アスリートやアーティストの皆さまと共に世界を跳び回り、写真を撮っているイメージですが、今はどちら在住なのですか?

今はハワイです。友人の土地にあるプレハブ小屋を修理しながらそこに住んで生活しています。最初はボロボロの小屋だったんですが、少しずつDIYで修理したりペンキを塗ったりして綺麗にしています。掃除は精神を整えますし、家を改装すると自分自身改心できる気がするので、楽しんでやってます。ハワイは食べ物が馬鹿高い!けど、仲間の庭で育つパパイヤ、ドラゴンフルーツ、バナナ分けてもらえるから、食糧には困らないので最高です。

——改めてどのようなお仕事をされているのか、教えてください。

アメリカでは「写真家」としてビザをもらっています。なので写真がメインではあるのですが、海外メディアの取材を受ける時「職業はプロフェッショナル・ハングアウター*」と言ってます。

スケーターやサーファーたちと一緒に時間を過ごして写真を撮ったり、料理を作ってあげたり、ボディワークしてあげたり、状況に応じて役に立てる術を考えながら基本的にはハングアウトしています。

実データ グラフィック RIP ZINGER氏の撮った写真
実データ グラフィック RIP ZINGER氏の撮った写真
RIP ZINGERさんの写真家としてのこれまでの仕事より。

——最初に海外に興味を持たれたのはいつ頃ですか?

6歳の時に兄と一緒にスティーブン・スピルバーグの映画『E.T.』を観て、BMX(バイシクルモトクロス)を知り、アメリカのBMX専門雑誌『フリースタイリン(Freestylin’)』を愛読するようになり、そこでスケートボードに出会い衝撃を受けました。

——『Freestylin’』はスパイク・ジョーンズさんも働いていた雑誌ですよね。

そうです。80年代はスケートカルチャーが日本に来たばかりだった頃でした。それで、14歳の時にお小遣いをはたいて、親には内緒でハワイに行きました。友達の家に泊まらせてもらって。

——14歳の時に一人で?

あ、さすがに母親には言いましたが、父親は行かせてもらえなさそうだったので「友達と大阪行ってくる」って嘘ついて(笑)。

当時アメリカにあったNSA (National Skateboard Association)というスケートボード協会の全米大会をハワイに観に行きました。今まで雑誌を通して憧れてきたスーパーヒーローたちが目の前にズラーっといて、技を決めるのを見たり、直接会うことができて、心が揺さぶられたのを覚えています。

自分は英語がほぼ話せませんでしたが、プロスケーターたちに「お前が大好きなんだ!日本から来たんだ」と全員に言い続けてたら、エリック・ドレッセンというスケーターが「俺も日本が大好きなんだ!連絡先を交換しよう」と言ってくれて。あの頃そこまで親日なアメリカ人は珍しかったと思います、しかもスケーターで。

そこからエリックが日本の俺に手紙を送ってくれるようになって。手紙にカッコいいステッカーやスケートの写真も同封してくれたり。ボードまで送ってくれたこともあります。

——そこから本格的に英語にも興味が?

いや、それが、エリックはカルフォルニアのスケートカルチャー発祥の地と言われるベニス・ビーチで滑っていたので、手紙の文字の書き方がもうギャングっぽくて、全く読めませんでした。「A」を「△」と書くし、「E」は「三」みたいな3本線で書くので(笑)。頑張って一文字ずつ解読できても、英和辞典には載ってないスラングの英語を使っていたり。

その時点で、授業で教えてくれる英語を習っても、自分のヒーローであるエリックとコミュニケーションがとれないことに気付いてしまって。同級生たちはその後企業に就職したりしてましたが、自分はそうじゃない「枠の外」の生き方、いわゆるアルタナティブなライフスタイルに魅せられました。アメリカを妄想しながら、必死にスケートボードに熱中してました。

——では、写真のほうもスケートボードの延長で始められたのですか?

ですね。19歳の頃、写真好きのスケートボードの先輩に教えてもらいました。当時もちろんフィルムだったので、スケーターの写真を撮るほうも血の汗をかいてました。技をメイクできないことも多いですし、連写で撮るので、フィルム代がどんどんかかってしまいます。

トリック(技)をワントライ撮ろうとすると、大体12コマかかるので、フィルム1本でトリック3トライぐらいしか撮れない。当時1本600円、700円ぐらいだったと思うんですが、食費や生活費を削ってやってましたね。

——カメラ機材へのこだわりはありましたか?

最初はCANONのEOS Kissを使ってました。スケートの写真なので、魚眼とかワイドのレンズをゲットして撮ってました。どうしても夜に滑ることが多いので、フラッシュを焚かないといけなくなるんですが、ワイドレンズで内蔵フラッシュを使うとレンズの影が写っちゃうので、外付けのフラッシュを調達したり。すると、スノーボーダーにアテンドする仕事で、雪山に行かなくちゃならない。雪山はどうしても被写体の近くに行けないから、ズームレンズや望遠レンズが必要になってきたり。気付いたらどんどんDIYで道具が増えていきました。

最近ではライカM6、ニコンFM2、リコーGR1s、ニコンD850を使っています。

写真 ZINE「CLUB SANDWICH」限定BOXに収録されたリップさんの作品集
写真 ZZINE「CLUB SANDWICH」限定BOXに収録されたリップさんの作品集
スノーボードのZINE「CLUB SANDWICH」限定BOXに収録されたリップさんの作品集。

「カウチ・サーフィン」から生まれた写真集

——話は戻りますが、20代、30代はどのようにして活動されていきましたか?

20代は積極的に外国人のスケーターやアーティストをアテンドしていました。通訳したり、運転したり、撮ったり。徐々に「日本といえば、リップ」と言ってもらえるようになりましたが、正直仕事としてお金をもらえるのは3分の1ぐらいだったと思います(笑)。

でも「ノー」と断ったことが一度もなかったです。そこで気に入られて逆に海外に呼ばれたり、色んな人と繋がれました。なにより、自分の英語の上達にもつながりましたし、彼らの目を通して自分の育った街の中に見たことない景色が見えてくるのが面白かったです。

——生活に不安を感じることありましたか?

22歳の頃、そういった写真を撮りつつ、1年半だけ広尾にある「ナショナル麻布スーパー」でアルバイトをしてました。冬にニセコに行くお金を貯めるために。ある日、ある先輩に「バイトしながら写真やってるようだと、一生バイトしながら写真やることになるよ」と言われました。やりたいことだけに集中することの大切さに気付かされました。それから不安をかき消し、アルバイト生活は辞めました。

——大人になられてからも英語という言葉の壁は感じましたか?

常に感じていましたし、悔しい思いもしてきました。ツアーバンを運転している時に、車内で皆がアメリカのコメディアンを聴いて爆笑していて、俺だけわからないとか。冗談混じりで絡んでくるやつに対して言い返せない自分の無力さを感じたり。

でも世界中の人が英語を話せるのに、有能な日本人の僕が話せないワケがない。ある日決めたんです、「英語話せないことを言い訳にしない」と。そこから上達が速かったと思います。

——そこからどのようにして拠点を海外に移されたのですか?

2005年にマイク・キャロルというスケーターに「カウチ・サーフィン」というコンセプトを教えてもらいました。知人のカウチ(=ソファ)で泊まらせてもらい、 転々とすること。

今まで日本で案内したスケーターやアーティストたちの所在地を並べてみたら、アメリカを横断できることに気付きました。すぐアメリカ行きの航空チケットを買って、90日間滞在することにしました。それが31歳の時です。

そこから2018年まで、ずっとカウチ・サーフィンしてました。毎日違う家で、違う仲間と朝を迎え、一日を過ごす。その人のことやその文化、その土地を知るのに最高な手段でした。

——エクストリームですね!

でもひとつ自分の中でルールがあって、泊めさせてもらったり、食事をとらせてもらったり、いわば “TAKE”をしたら、代わりに “GIVE”をしてバランスをとることです。常に「何をしたら一番助けられるか」をクリエイティブに考えて還元する。家族写真を撮ってあげるとか、ガレージを片付けてあげるとか、奉仕だと思って楽しみながら率先してやってました。

向こうもハングアウトするなら気持ちいい人とハングアウトしたいじゃないですか。一晩泊まっただけなのにずっと覚えてくれるような思い出の人になりたいじゃないですか。これを10年以上続けていったら、いつの間にか遊びを超えて精進修行のように発展してました。

——『WEST AMERICANIZED TOUR』という写真集をSTUSSY BOOKSから出されましたが、それはその90日間のあいだに、ってことですか?

そこから始まりました。アメリカに行って2週間ぐらい経った頃、ロブ・アベイタJr.という、ガールというスケートボードブランドのアートディレクターだった友人の家に泊めてもらっていたんですが、ある夜突然「お前はうちの家族も巻き込んで居候してるけど、こっちでやりたいこととかあるのか?無いなら、別にいいんだけど」って訊かれました。

正直特に無くて、アメリカを楽しんで満足している俺の痛いところを突かれた気がして、焦って「あるある」って、はぐらかしてしまったんですが、翌朝朝食をとっている場で「リップはアメリカでやりたいことがあるらしいんだ」って家族の前でふられて。

そこで「写真集を作りたいんだ」って答えちゃったんですよ。いつかやりたかったことを。遠慮がちな日本人の心を押し殺して。するとロブが「どんなの?俺がアートディレクションしてやる」って言ってくれたんですよ。

そこで分かったのは、夢は具体的であればあるほど、人は賛同してくれたり、助けてくれるということ。例えば「写真家になりたい」と言うより、「写真集を出したい」と言ったほうが分かりやすい。特に海外ではそう。夢を実現させるには、まず人に伝えてみることが大切です。

それから残りの滞在期間はとにかく写真を撮りまくり、日本に持って帰りました。日本で信頼しているアートディレクターの大橋修さん(thumb M)という知人にモックアップの作り方を教えてもらい、ほぼ本として完成している、完璧なモックアップを作りました。そこから色んな人にプレゼンしたり、本を見せたりしました。あとは刷るだけ、という状態で。ちょっとしてから、STUSSYのクリエイティブディレクターのポール・ミットルマンが日本に来ていた時にドライバーの仕事をしてたんですね。

ポールにモックアップを見せたら「すぐにSTUSSY BOOKSから出版しよう」と言ってくれて。本当に嬉しかったです。しかも泊めさせてくれたロブがその頃にはSTUSSYに転職していて、アートディレクターをやってたんですよね。追加で写真を撮影する予算も出してくれて、アメリカのSTUSSY BOOKSから写真集を出版することができました。

写真 表紙 『WEST AMERICANIZED TOUR』

写真 『WEST AMERICANIZED TOUR』
初めての写真集『WEST AMERICANIZED TOUR』

——エピソードに出てくる人たちが錚々たるメンバーばかりですね… 。では、写真を撮るにあたって、リップさんはどのようなことを意識されますか?

写真はもちろん表現手段という意味で「アート」ではありますが、目の前にオブジェクトがないと写せないものです。写真家は写真が好きなだけでは成立しなくて、撮りたいと思うものを見つけるために世界や物事に対して「興味」や「見解」が大切です。技術云々とかのアカデミックなアプローチより、楽譜が読めない凄いギターリストがいるように、パッションだったり、被写体と自分との関係が大切です。

例えば、自分にしか撮れないライディング写真を撮るために、被写体であるアスリートたちのコンディションを考慮したり。よくスノーボーダーの写真も撮るんですが、そういう時は何人かのスノーボーダーと、ビデオグラファーとスチールカメラマン、全員で雪山のロッジに泊まります。毎日全員で外食ってワケにはいかないので、夕食は冷凍ピザとか揚げ物で済ませちゃうことが多かったんですよね。でもそんな食事を毎日食べていると、アスリートも良いパフォーマンスが出せないし、良い写真も残せなくなっていきます。

そこで皆にヘルシーな食事も作り始めました。また、技をメイク出来ず怪我したライダーが怒って早めに帰ることがあったので、自分がマッサージを覚えて手当をして、撮影続行できるようにしたり。とにかく「撮影」という仕事環境の中で最高な時間を過ごしてもらうために色々すること。そして結果として最高の写真が残ります。

今年1月にはアメリカのスノーボーダー、トラビス・ライスの指名で一緒に長野地方に1ヶ月行ってました。

——今後リップさんが写真と旅以外でしたいことはありますか?

3つあります!まず一つ目は、農業の応援です。日本の食事は世界でトップレベルなのですが、国内の食料自給率は現在史上最低と聞きます。これから和食の文化を守るためにも農業のスーパースター、カリスマ農士が必要だと思っています。妄想ですが、有名なサーファーやスケーターが農業に興味を持ってくれて「うちで収穫した野菜すごくない?」 みたいなことが起こったり(笑)。農業や食はカッコいいものなんだという流れが作れたら嬉しいです。

二つ目は、子供たちのグローバルな交流の手助けです。日本ではこれから円だけではなく、外貨も稼がなければいけない時代がやってくると思います。今ハワイの家族をニセコの雪山に連れていく活動を始めているのですが、そこで外貨が日本に落ちることはもちろん良いことですが、それだけじゃなく、ニセコの子供たちが海外の子どもたちと交流することで、将来世界を旅したり、大人になったら海外で外貨を稼ぐシナリオのきっかけを作れたらと思います。

三つ目は、健康です。ウルティメット・ヘルス(究極の健康)というコンセプトで、健康生活全般の促進活動をしています。食、運動、生活習慣、精神状態など複合的な要素を自分なりにまとめ、国境年齢関係なく幅広い人々に発信していけたらいいなと思ってます。

——最後に、海外で生きたい人にアドバイスをお願いします。

世界は広いです。自分の持つ常識がことごとく否定されることもあります。そして時代の発展も速いです。文化や時代の碇が役に立たなくなるこれからの時代を生き抜くには「柔軟性」と「抽象性」が必要になると思います。自分の枠を作らず、慣れないことでも理解してみる、やってみる「柔軟性」。経験体験を通じて学んだことの中から良いところを抑えて自分にとって利になるようにカスタムする「抽象性」。

常に問われるのは新しく取り込まれる学と「自分らしさ」や「日本人として」などの意識のバランス。そうやって自分の世界を広げて、自分を進化させていく生き方を追求してみてください。

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写真 表紙 『NEW YORK CITY』

写真 写真集 『NEW YORK CITY』
写真集『NEW YORK CITY』
プロフィール

RIP ZINGER (本名:田中友規)

  • 写真家。現在ハワイ在住。
  • BURTON、NIKE、HEAD PORTER、PATAGONIA、RICOH、RON HERMAN、RVCA、STUSSY、VOLCOMなどを含む、数々のブランドや雑誌の表紙を手がける。
  • 1974年 東京で生まれる
  • 1980年・6歳 BMXに出会う
  • 1985年・11歳 BMX雑誌でスケートボードに出会う
  • 1988年・14歳 スケートボードの全米大会を観に、ひとりでハワイに行く
  • 1993年・19歳 写真を始める
  • 2005年〜・31歳〜 渡米し、旅をしながら写真を撮り続ける
  • これまでの主な書籍:
  • 写真集『RIP ZINGER WEST AMERICANIZED TOUR』 (STUSSY BOOKS, 2009年)
  • 写真集『RIP ZINGER NEW YORK CITY』(BUENO!BOOKS, 2009年)
  • 写真集『RIP ZINGER NIGHT RIDER』(SUPER LABO, 2010年) 等。