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コラム

好奇心とクリエイティビティを引き出す「伝説の授業」採集

20回目(最終回):ブックディレクターを生んだ幅家の教育と、僕みたいなのを生んだ倉成家の教育。

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イラスト:萩原ゆか

始まりがあれば終わりがあり。終わりが近づくと名残惜しくなってくる、というのが世の常であり。

この「伝説の授業採集」の連載も、今回で最終回。全部リスペクトしてる授業だから、全く手抜きができない。調べ直し、インタビューし直しつつ、全力投球の原稿を2週間に1度上げるのは、好きで始めたとはいえ、実は結構苦しくもあった。このマラソン、ゴールまで辿り着けるのだろうか…と思っていたが、何とか着いた、ここ、最終回に。

最後は、パーソナルな、家庭内の伝説の教育事例で、締めくくりたいと思う。

子どもの頃、「近所の本屋で本を好きなだけ、ツケで買って良い」と言われていたというスゴイ話。

この教育を受けたその人は、世の中の人にもっと本を読んでもらうために「ブックディレクター」という職業を作り出して、奔走している人である。本の虫、本の男、幅允孝くん。

ブックディレクターという職業を作り出し、人と本の距離について提案し続けてきた、有限会社BACH代表、幅允孝くん。

「ツケで買って良い、という話。あれって、そもそもどんなことだったの?」

10年以上前に個人的に聞いていたこの話をほじくり返して、Zoomで改めて聞かせてもらった。

「母親が本が好きで。特に近代文学が好きだったんですね。僕はいま城崎温泉の仕事をしてるから、志賀直哉、武者小路実篤、有島武郎とか、今でこそ白樺派などいっぱい読むけれど、当時から実家にはすでにたくさんありました。

ずっと主婦だった彼女は、本の関係の仕事に就くわけでも、子どもたちにそっちにいって欲しかったわけでもなかったと思うんだけれど、そんな母によって、お小遣いについて、早い段階から始められてたのが、『本だけ小遣い別制度』。小学校1年生の頃ですかね?」

「そんな名前だったんだ!?」

「今となってはね、後付けでそんな名前で。要は、お小遣い、本だけは別でいいよっていう話です。

小1の時は確か、お小遣い500円。小3から1000円に値上げしてもらったんですけど、とはいえ1ヶ月で1000円だと、当時流行ってたガンプラとか、キン消しとか、ビックリマンチョコとか買うとすぐ消えます。で、お小遣いなくなって困ったら行くのが、本屋さんっていう。

僕は、愛知県の津島市という田舎町の出身なんですけど、名鉄津島線の青塚駅前にあった書店が、最寄りの本屋さんだったんですね。在庫が全部で5000冊位の小さなところだったけど、雑誌も漫画もあれば文学もあるし、自然科学も社会科学も絵本もあって、小さいながらにいろいろあるという総合書店でした。なんでも知れるわくわくする場所でした。

お小遣いなくなったら本しか買えなくなるので、とりあえずその本屋さんに向かうわけですよ。小学校1、2年生の頃とかは親と一緒に行って、『これが欲しい』と言って、買ってもらってた。水泳部だったから海洋冒険譚とか好きで、スティーブンソンの『宝島』もそこで買ってもらって必死で読んだことを今でも覚えてます。

でも、3年生になってお小遣いが昇給すると、もう親とは一緒に行かず、チャリンコで一人で行って、ふらふら見る。だけど、今回は、親が付いてないから、お金持ってない。どうしよう!?

でもそこは、田舎町のちっちゃな町のちっちゃなコミュニティーですから。僕もそこの店主も知ってればたまにレジにいる奥さんも知ってるし、逆も然りで、向こうもうちの家族構成も父親の仕事とかもいろいろ知っている。最初は『今日はお母さんがいないけど、この本が欲しくって…』とおずおず本をレジに持っていったら、『ああ、幅くんね』って言って、ささっと書名をメモして、月末に母親が支払いに行くみたいなシステムが、何故か勝手に構築された。

というのが、『本がツケで買える制度』ですね」

「なるほど」

「本だけ小遣い別制度も良かったけど、この本がツケで買える制度が、より良かったと、今となっては思いますね。

親になるとわかるけど、なんとなく子どもも親の顔見て本を買うっていうところがあります。これを手に取ったら、こういうことに興味持ってるって思ってもらえるんだろうな、とかね。

でもこの制度だと、親の顔を気にせずに本が買えます。しかも児童文学じゃないとダメとかそういう縛りもなかった。だから雑誌でもよかったし、漫画でもよかったし、図鑑でもよかったし、何買ってもよかったので、自由に本の世界を泳げたのはスリリングでしたね」

「買った書名はご両親も知ってるの?」

「知ることになるけど、月末までわかんない。例えば、人生初めての大人買いは、そこでしたんですよ。『あしたのジョー』を。

7時半くらいまでに家に帰んなきゃいけないのに、力石戦(名場面ですね)まで立ち読みしたら、どうしても止まらなくなっちゃって。とにかくすぐ読みたいんだけど帰んなきゃいけないから、人生初めてガサっとレジに持っていきました。店主もいつもと違う量持ってくるから、ほんと大丈夫?みたいな感じで聞くんですけど、最後は、はいはいって言って、全巻分をメモしてくれました。

そして、帰って、母には当然報告もせず、ご飯さっさと食べて、部屋に戻って最後までもう、深夜まで一気読みですよ」

「ガサッと何冊くらい持ってったの?」

「20巻ですね」

「立ち読みはしてたけど、一巻から全部持ってったってこと?」

「やっぱね、この名作は全て手元にあるべきでしょ、と思っちゃったんですよ」

「子どもながらにね。今の幅くんにつながってる感じするね」

「月末、何を買ったかが親に露わになるその時に、金額が随分いってることを謝るんじゃなくて、いかにジョーが面白かったかということを伝えようと勇んだその気持ちは、今の自分を成していると思いますね。本のプレゼンテーションという意味で」

「で、お母さんはなんて言ったの?」

「ジョーなら仕方ないわね、と一言。母が最も寛容だった日ですね」

「一応ドキドキしたんだ?その月末」

「いや、ドキドキどころの騒ぎじゃない。とはいえ、謝ったら負けだとも思いましたから。自由に使えると言っても、子どもながらに気を遣って、なんだかんだで大体これくらいっていうのがあるんですよ。低学年の時は1000円で2冊買うとか。高くても1500円とか。で、2000円超えるとちょっといっちゃったな、みたいなのはあって。正直、『ジョー』は破格でしたねえ。よく許されました」

名鉄津島線の青塚駅界隈の地図。幅くんを育てたその伝説の本屋さんは残念ながらもうないらしい。

「これが、その後の人生にどう影響したのか?っていうことを聞きたいんだけど」

「なんでしょう。まず先程言った、親の顔見ず本を選ぶのは、すごくよかったと思います。雑誌だからどう、児童文学だからどうと区別せずに、フラットでフェアー、かつ先入観なしに、どの本とも向き合えました。

あと、本を読む=ゲインを得ようみたいな話が、いまの世の中は多いじゃないですか。1000円の本を2時間で読んだら、1000円と2時間分の何かを得なきゃいけない切迫感というか。そこが僕は著しく欠けているところがあります。

つまり、本を必ず直ぐに役立てようと思わないんですよね。主体は自分。そして、遅効性の道具として本をどう使いこなすかが重要だと思っています。

商品だと思ってなかったところがありますね。本って高いなと大学生のとき思いました。お母ちゃんありがとうって」

「子どもの頃に値段気にしなくて良かったから、さらに縛られないんだね」

「僕はなるべく健やかに生きて死ぬのが目標なんですけど、健やかに生きるために、いろんな人たちのアイデアとか感情とか経験を自分という器にいれる感覚で読書をしています。途中で読むのやめると敗北だという気負いみたいなのもなくて。他者から絞り出されている言葉や言霊、それに対して、フィルターなく呼吸するように接しているところはありますよね」

「幅くんにとって、本って何?」

「幾つか答えはありますが、本って人だと思ってますね。頼りになる他人。そして面白いのが、問いかけても答えてくれないところ。でも不思議なもので、何度か読んでるとなんとなく聞こえるみたいなものもあります。世の中のアミューズメントがシェアベースになってる、つまり基本『みんなで、みんなで』になって来てますけど、本の書き手と対面してる時間は、1対1の関係じゃないですか。そうやって1on1対峙しながら探ってくってのは面白いですね」

「小1からだいぶ本に興味持ってたんでしょ?お母さんから、本を読ませるために何か働きかけられてたのかな?」

「いや、なかったですね。読めって言われた記憶は1回もない。ただ状況だけは作ってくれた。まあ教育というより、環境を整えてあげよう、田舎でやれる範囲で、という感覚だったんじゃないかと思いますけどね。

逆に、『読むな』って言われたことはありました。実家に蓋つきの書架があって、そこは読むなと。そう言われると気になって開けるじゃないですか。そこには川端とか谷崎とかの近代の中でも艶かしい本が入ってて。読むなって言われたら読みますよね」

「他に教育されたなってことはある?」

「僕は3歳から18歳まで結構スポーツやったり、ボーイスカウトやったりしてたんです。だから、本だけ読む子じゃない子への促しはあった気がしますね。野外キャンプ面白そうじゃんとか、外に出るモチベーションを逆に作ってた気がする。外に向かっていく遠心力と、内に向かっていく探究心と。両輪を走らせるというか。

本だけ読んでて頭ばかり大きくなるより、actに移し変えるとか実装させるという時には、外に興味がないと活かせないと思うのでそこは良かったと思います」

本屋の本の陳列を、作家のアイウエオ順や、出版社で括るのを辞めるという新しい陳列法を編み出したり。本を読む人が減っているなら、カフェやホテルやあらゆるところに、本棚の方が出向いてしまえ、ということを始めたり。そんな本を巡る環境の変革を始めたこの人を生んだのは、この家庭内で行われていたツケ制度だったと言っても過言ではないだろう。

教育って、やっぱり大事だな、と、幅家の伝説の授業、伝説の教育を聞いて改めて、皆さんも思われたことだろう。

さて。

人様のお家の教育を色々と散々書いてきた。しかし、自分の家の教育についても少しは触れなければ、書かれた方も、人んちのことばっかり赤裸々に暴きやがって、と、収まるまい。

ということで、エピローグ的に、我が家のことを書いて、終わりにしたい。

僕は、父は植物学者、母は茶道の先生という、珍しい組み合わせ(共通点としては両方とも色がグリーン関係ではあるが)の両親の下に生まれた。

父が植物関係となると、土日は山登りが多く、そのついでの植物採集に付いていくこともよくあり、必然的に夏休みの自由研究は、植物採集となる。

僕の子どもの頃は、理科の自由研究のみに特化した「理科作品展」なるものが県主催で開かれていて(前の記事にも書きましたが、佐賀県出身です)、担任の先生の勧めもあり、それに、出そうよ、ということになった。

出すのはいいけど、プロだから。普通じゃない。

まずテーマ選び。

小1の時は「自分の家の庭の植物」を採集する。そして小2になると「佐賀市内の植物」、小3は「佐賀県内の植物」と、エリアを徐々に広げながら、やる。始める時から3年間の、長期目線のリサーチである。

提出物も同級生と違う。

植物採集だけ出すのではない。大きな模造紙の上の方をハトメで止めて、20ページくらいの巨大考察プレゼンシートも、まとめとして出す。なぜこれを調べようと思ったのかという「動機」から始まり、調査のプロセス、仮説、結果、そして自分の発見や考えで締める。(クオリティー的に、誰か裏にいるの、バレバレだよね)

これを作るのに、締め切りが近づくと低学年なのに夜中2時半とかまでやってた。(うちは親からして夜型だった)

小4以降は、植物じゃなくてもよし!となり、もっと幅広くテーマフリーになった。と言っても、親と話しながら決める。結果、4年生の時は、噴水のジオラマを作った。四角い平べったい缶の口に、細い管を上向きにつけて、太陽の下に置いておくと正午過ぎに水が出る、というもので、要は、空気や水の膨張についての理解をさせようというのが父の狙いだった。

例の模造紙のプレゼンシートにまとめる段階で、この研究の名前どうしようか?となり、実はここで、生まれて初めてのネーミング体験もしている。パッと思いついて、「『太陽熱利用タイマー噴水』ってどう?」と言ったら、いいね、と父の賛同を得て、それになった。理系の学習だけでなく、コピーライター経験も自由研究には含まれていた。

こんな風に、小5、小6でも、科学的な何かを元にした親子共同制作の作品を作っては提出していた。

毎回出すたびに、父が狙っていたものがある。それは、賞である。一番上のグランプリは知事賞なのだが、それではなく。父が獲ろうよ、と言っていたのは「創意工夫賞」だった。面白いとか、新しいとか、独創的とか、そういうものに贈られる賞。それを狙おうと。

賞は結局、何かしら毎年もらったが(小6の時だけ逃した)、お目当ての創意工夫賞が獲れたかどうかは覚えていない。

けれど。こうやって。大人になって、アイデアを出すことを生業にするとは。まんまと父の指向性に、いつの間にか染まっていたのかもしれない。いや、それが狙いだったのか。4年前に亡くなったのでもう確かめようはないが。

実家のアルバムにあった、授賞式の写真。真ん中で頭下げてるのが小4の時の僕。

こんな父の教育から影響を受けたのは、「創意工夫」を狙う以外にも、あと2つある。

ひとつは、この集めるというリサーチ法である。

たくさん集める。そして分類する。これでわかることが色々とある。そして、その分類にないものがあった時には、「新種発見」となる。

父のお葬式で、植物の研究仲間に聞いて分かったことだが、父は5つの新種を発見したらしい。そのうちのひとつには、クラナリイヌワラビというシダ科の植物もある。

これも、全く同じことを各方面で僕はしている。完全に気付くまで、無意識だったのだが。

先行事例を集める。競合事例を集める。ヒントを集める。コンセプトを集める。そして、自分オリジナルの、新しいアイデア、つまり「新種」を生む。やってること、全く同じである。

お気付きであろう。この連載もその流れである。面白いクリエーティブな教育、つまり、教育の新種を生むために、古今東西から伝説の授業を集めていたことを改めて書いているわけである。連載のタイトルからして「採集」である。完全に父とやっていたことの延長線上である。

もう1つは、かなり深い。

2002年頃、父は徐福長寿館という植物園の館長をしていた。徐福というのは、秦の始皇帝の息子で、不老不死の薬を求めて日本に来て、見つけたと言われる人物。発見場所は佐賀市の金立山近くという説があり、その山の麓の植物館に「徐福」の名が冠された。

ある日。フジテレビが徐福特集を組んで取材に来ることになり、父が案内役になった。徐福が不老不死の薬として見つけたのは「カンアオイ」という薬草。山の中の生えているところまで取材班ご一行をお連れし、一同が「これですか!」となった時、レポーターの一人だった東貴博さんが、父にこう聞いた。

「倉成さん、不老不死ってどうですか?」

オンエアで見た、父のその答えが、衝撃だった。

「不老不死とか、ならん方がいいですよ」

「ええっ?なんでですか?」

「命には限りがあって、リレーするのがいいんですよ」

当時すでにコピーライターをしていた僕は、いいセリフ、って思った。同時に不謹慎ながら、長男である僕は、このエピソードを父のお葬式の弔辞で使おうと思って、覚えておいた。

そして15年後、実際に亡くなった時、親族代表の挨拶で、参列者の方々にこの話をした。

リレーしますよ。僕らが、と。

山道を登る父。結局、背中を見て育ったのか。ジャンルは違えど、父と同じ道を歩いていた。

今回まで20回、海外から国内まで、過去から現在まで、学校から企業研修、偉人の教育から家庭内まで。古今東西、時空を超えて集めた「伝説の授業」を紹介してきた。

その選定基準は、一見すごく面白い、けれど実は「教えたいこと」が裏に設計されていて、いつの間にか体験して学んでいるものだと書いてきた。

教えたいこと。

それは、こんな風になってくれよ。未来をこんな風に切り開いてくれよ。と、自分の寿命を超えて、次の人に託すものだ。

教育はリレー。教育は希望のリレーである。

長い間、「伝説の授業採集」を読んでいただきありがとうございました。

ここで掲載してきたものにインスパイアされた方がいらっしゃったとしたら、感じたり思いついた何かを、また誰かに、リレーしてもらえたらと思います。命を削って集めて書いてきたこの連載も、書いた甲斐があったというものです。

同じ時代、同じ世界に、生きている人々で。

共に、リレー、していきましょう。

次の時代に、次の世界を、生きる人々へ向けて。

ずっとリレーされてきたこと。そこに、21世期的なる、自分たちなりの、何かを加えて。

 
追伸:
もし良かったら、あなたが受けた、または、あなたが知っている、「伝説の授業」をお教えください。いただいた中から、取材して、番外編として1回原稿にしたいと考えています。こちらのフォームから、お寄せください。感想も書ける欄がありますので、感想だけでも結構です。よろしくお願いいたします。