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コラム

脳のなかの金魚

何か100%なものが必要であることについて

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「普遍」「絶対」に立ち向かった2人の天才

スタンリー・キューブリックには駄作が1本もない。理由は彼自身が明かしている。

「駄作は自分で捨てる。公開しない。」

ずるい。
そして、うらやましい。

『恐怖と欲望』(1953年)にも、キューブリック各作品に特徴的な“狂気じみた上目づかい演出”を見ることができる。<写真はTurner Classic Movies - Movie Clip “ Don't Tell The General!” から>

キューブリックのその方針は没後も守られてきたが、ながらく封印されていた『恐怖と欲望』(“Fear and Desire”)が、日本では2013年に初めて公開された。監督4作目にあたる。

本人が「素人の仕事」と切って捨てた映画だけに、あれほどの監督の失敗作とはどんなものなのか期待(?)したのだが、なんのことはない。明らかに普通ではない立ち位置を持つ監督による映画だった。

いちばん印象的で、その後の傑作群を暗示しているのは、『恐怖と欲望』というタイトル。『時計じかけのオレンジ』『シャイニング』などを思い浮かべれば、テーマ自体はこの頃から存在していたことになる。

残念ながら、あの類まれなサウンドトラック構築力などはほとんど感じられない(『博士の異常な愛情――』のラストシーンにおける、あの音楽のあて方はもはや教科書になっている)。けれど、ソリッドな文体と暴力的知性/ユーモアは、すでに姿を現している。

この映画の冒頭ナレーションで、キューブリックはこんなことを書いている。

「これは実際の出来事ではなく、普遍的な戦争の話である。(略)しかし、どんな世界であろうと恐怖と不信と死は普遍なのだ」

ずいぶん大胆だ。無名監督の分際で、いきなり「普遍」を提示すると言ってるわけだから。

そうなると当然ウィトゲンシュタインの哲学史上最も傲慢な発言を思い出さないわけにはいかない。

『論理哲学論考』序文の最後のところ。

「この本で伝えている思想が真実であることは、決定的で疑いの余地がない。つまり私は、哲学の問題を最終的に解決したと考えている」

彼はさらに付け加える。

「この書物のもう一つの意味は、哲学の問題が解決されたとしても、ほとんど何もなされなかった、ということを示している点にある」

要は、俺さまが、哲学の問題をすべて完璧に解決したのだが、ま、たいした意味はなかったぜ。と言ってるわけである。雑誌掲載時32歳。処女作の序文の結論部である。ここまで傲慢だと、もはやセクシーだ。ちょっとモテそうだし。

彼らふたりに共通するのは、最初から、「普遍」あるいは「絶対」を獲得するつもりで、立ち向かっている点である。それは、必ずしも「青春らしい気負い」のようなことだけではなく、目的意識と方法論意識とによるものと思われる。

広告の仕事は、基本的にクライアント課題解決の技術を競い合うゲームであるため、つい対症療法的になりがちである。「全体性」「普遍性」「絶対性」などから遠い位置にいる。

けれど、それではたぶんもうダメなのだ。

次ページ「ブランドと、カスタマーとの、あるいは世界との関係」に続く(2/2)


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