コラム

脳のなかの金魚

人生は祭りだ。たぶん。

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前回の記事「Somebody up there likes you」はこちら

「つながり」「キズナ」――ソーシャルメディアの普及でこんなフレーズを目にするようになりました。けれど世界がまだネットで結ばれていなかったころに比べ、私たちは、“本当に”つながっているのでしょうか。今回は、いまなお色あせない70’sから、私たちがずっと、コミュニケーションに求めているものを描き出します。

1971は僕にとって忘れられない年だ。
 
2月のブラッド・スウェット・アンド・ティアーズを皮切りに、4月フリー、6月シカゴ、7月グランド・ファンク・レイルロード、8月ピンク・フロイド、9月レッド・ツェッペリン、10月エルトン・ジョン。これだけのアーチストがいっぺんに来日したのだ。まだ、外タレなどという言葉が流通している、つまりガイジン・アーチスト来日が珍しかったころである。レコードを聴き始め、グレコのギターやベースを弾き始め、渋谷や六本木のロック喫茶に通い始めた東京の男子にとって、人生で初めて経験する衝撃的な年だった。

この流れは、翌年のT-Rex。2年後のデヴィッド・ボウイ(学校から帰って友だちの家に集まり、女子たちにメイクしてもらって13センチのロンドンブーツを履いて渋谷公会堂に向かった)、ローリング・ストーンズ(たしか渋谷東急の駐車場で徹夜してチケットを手に入れた。結局来なかったけれど)と続いていく。

ロック喫茶というのが、そのころ僕たちにとって重要な存在だった。そこへ行けば誰かがいた。会うともなく会い、特に用があるわけでもなく、ただいっしょにロックを聴いて過ごした。それは、バンド仲間だったり、友だちだったり、友だちの友だちだったり、友だちのガールフレンドだったりした。まるでSNSのように、どんどん知り合いが増えていった。けれど、ロック喫茶最大の価値は、1日中レコードを聴いていられることにある。例えば渋谷のB.Y.Gの2階などでは、たしか、シングルではなくアルバム単位でリクエストできたように記憶している。「カクタスのセカンド!」とか「アル・クーパーのアイ・スタンド・アローン!」とか。おこづかいが足りなくて買えないレコードをリクエストするのだ。

道玄坂の左手にヤマハがあって、いちはやく輸入の新譜を置いていた。当時は輸入盤の方が高く、みんなそれを当然だと思っていた。国内盤しか置いていない他のレコード店よりはるかに充実していて、入るのが楽しみかつちょっぴり緊張した。ヤマハやジャンジャン(まだ劇場ではなくロック喫茶だった)にいる年上の、と言ってもハタチ前後のお兄さんたちは、全員肩近くまで髪を伸ばしていて、全員とてもとても細かった。ロックにとって、やせていないことは、死を意味した。マウンテンのレズリー・ウエストという例外をのぞいて。

前を通ると必ず店に入った。たとえ380円くらいしかもっていなくても。そのころ輸入盤は特別な匂いがした。レコード棚の間を歩きながら、僕は、何度も深呼吸をした。その匂いは、肺からすべての細胞に行きわたり、僕をオトナにしてくれる気がした。そして、アートとしてのレコード・ジャケット。生まれて初めて「ジャケ買い」というなまいきなことをしたのは、モビー・グレープの『Wow』だった。右半分いっぱいに、大きなぶどうが描かれていて、それほど狂ってないダリ、って感じだった。次が、フリートウッド・マック(当時はヒットチャートを賑わすことなど決してないブリティッシュ・ブルース・バンドだった)の『イングリッシュ・ローズ(英吉利の薔薇)』。女装したイギリス人が、眼をむき、鼻をむき、大きく口を開けている、要はへん顔のアップ。もし、すでにモンティ・パイソンを知っていたら、きっとおばさん姿のテリー・ジョーンズを思い出しただろう。

とにかく毎日背伸びしていた。毎日が祝祭のようだった。

僕たちはロックというまったく新しいなにものかを全身で浴びた。ゲーテがイタリアを、漱石がイギリスを浴びたみたいに。次々に現れる新しいバンドをFMやロック喫茶で聴くのにみんな夢中だった。現在からみればまったく信じられないことに、「新しい」音楽というものが、次々と現れたのだ。

次ページ:「“祭り”の主役は参加者、そして“場”そのもの」に続く


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