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コラム

「広告」から「クリエイティビティ」へ【ACCプレミアムトーク】

杉山恒太郎さんに聞いてみた「日本のデジタル広告黎明期って、どんな様子だったんですか?」

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【前回のコラム】「ダイノジ・大谷ノブヒコ×グランジ・遠山大輔 2人に無邪気に聞いてみた「ラジオ業界、どうやったら盛り上がりますか!?」」はこちら

気鋭のクリエイターやメディア業界の人たちは、今とこれからの広告やメディアについてどう考えているの? ACCならではの視点で、これからの広告のカタチについてお聞きしていくシリーズ企画「ACCプレミアムトーク」。今回は、かつて電通で数々の記憶に残るマスキャンペーンを手掛け、そして国内におけるデジタル広告の礎を築かれた現ライトパブリシティ社長・杉山恒太郎氏に「日本のデジタル広告黎明期」の様子について、お話を伺ってまいりました。

(聞き手・文:博報堂ケトル 原利彦)

——本日は、輝かしい杉山恒太郎さんのキャリアの中でも、特に1990年代後半の「デジタル広告黎明期」に絞って、お話を伺わせてください。このアドタイを読んでいるデジタルネイティブと言われる若い読者にとっても、きっと良い刺激になると思います。

杉山さんが電通時代、初のデジタル領域のリーダーに任命されたのは、確か1990年代の終わりごろでしたか。

ライトパブリシティ 社長 杉山 恒太郎 氏

杉山:そう。ちょうどWindows98が発売されて騒ぎになっていた頃ですからね…98年・99年頃かな。

今はもう、亡くなられたんだけど、当時、電通副社長だった桂田(光喜)さん(注:JIAAの前身であるインターネット広告推進協議会・初代会長)に突然呼ばれてね。「これからの広告代理店はデジタルもカバーしていかんとダメ、お前、それのリーダーをやれ」って言われて。そして、その後「デジタルキッズは、ばらばらだと訊くから、お前が局長をやって、人心をまとめて」と言ってくれたのは、次の副社長の俣木(盾夫)さん(現:相談役)でした。もう、椅子から転げ落ちそうになってね(笑)。

——当時すでに、杉山さんは「ピッカピカの一年生」(小学館)や、「セブン-イレブンいい気分」(セブン-イレブン)「ランボー」(サントリーローヤル)など歴史に残るマスキャンペーンをいくつも手掛けてきたトップクリエイターだった訳ですもんね。

そんな方が、突然「君、これからデジタル」って言われてどんなお気持ちでしたか?

杉山:これがいわゆる、左遷というやつか、と(笑)。

僕、いまだに覚えてるのが、その時、自分のサラリーマン人生で初めて人に同情(笑)されたんですよ。「杉山もついに、はずれたぞ」ってね。

だって電通のなかでも、まだインタラクティブや、ソリューションっていう言葉すら浸透してなかった時代ですよ。どっかの首相が「IT」のことを「イット」って胸張って叫んで大騒ぎになる、少し前の話だからね。

——ありましたね「イット革命」。「アイテー」、「ヤホー?」って、恐る恐る呼んでいるオジサンも社内にいましたよ!

杉山:そうそう。それで、当然ながら、その頃電通ではCMやグラフィックといったマスのクリエイターが一番、幅をきかせていた時代ですからね。いや、僕も一応、その中で結構、頑張ってたんですよ(笑)。

それが突然、デジタル担当ですからね。シベリアで開墾する心境(笑)。当時、電通の中でもデジタル部門というのは、まだ稼ぎにならない傍流の扱いだったわけです。そもそも、デジタル広告にクリエイティブっていう概念すらほとんどない時代ですから。だって、静止画のバナー広告しかないんだから、このマスの中で「クリエイティブしろ!」っていったってそれは闇の奥ですよ。

でもいま思うと、当時の電通副社長だった桂田さんは、先見の明がありましたよね。

——間違いないです。そしてついに、電通初のデジタル領域の部署が立ち上がる、と。当時は何人くらいの、どんな職種の方々だったんですか。

杉山:30人くらい。もう電通のいろんな部署からやってきた、いわゆる完全な「理系」集団ですよ。びっくりしましたもん。「電通に、こんなに広告のこと知らない連中がいたのか!」と(笑)。

でも逆に、彼らを見て、僕はなんだか勇気が湧いてきたんですよね。責任感、とも言うのかなあ。

正直な話、僕だけなら電通辞めてもクリエイターとして食っていけるかなぁ?でも、もう通達が出ちゃった以上、僕がこの人たちの活躍できる場を作ってあげないといけないからね。意外に僕は他人に親切なんですよ。

それなら、もうやるしかないな、と。腹をくくりました。

——おお、そして、まずどんなアクションをとられたのですか?

杉山:さっき話に出てきた桂田さんが「杉山、とりあえずデジタルの最前線を観てこい」って言ってくれて、僕をMIT(マサチューセッツ工科大学)に行かせてくれたんです。

そこに、シーモア・パパート(子供向けプログラミング言語LOGOの開発者であり、MIT人工知能ラボラトリーの創設者)っていう、もう見た目が鉄腕アトムに出てくる御茶の水博士そっくりなパンクなおじいちゃんがいたんですよ。そのおじいちゃんと気が合ってね。

一緒に仕事を仕掛けてみたり、彼からテクノロジーの最先端を学ばせてもらった思い出がありますね。今から考えると、あのおじいちゃん凄い人だったんだよね。

——いや、杉山さんが当時、それだけの輝かしいキャリアをお持ちだったにもかか拘わらず、突然、新しいことに無邪気にチャレンジできることが凄いですよ。

杉山:もともと新しいことをやるのは好きな性分だったから。ただ、デジタルの知識だったら、僕はその30人の部下たちに到底かなわないので、僕は僕なりに、デジタルを少しずつ勉強しながらも、これまで自分が広告業界で培ったクリエイティブの知見や経験、リソース、リレーションを、彼らにそっくり差し上げることが、自分の役目だと思ってましたから。

——それ、格好良すぎます。ちなみに、いくつか印象に残っているエピソードを伺ってもいいですか?

杉山:その新設の局に来た人たちなんですが、皆それぞれ個人はとても頭が良くて優秀なんです。ただ、どうにも一人で仕事がするのが好きな人たちで、チームで仕事ができない。やっぱりどこかオタク的だから(笑)。僕なんかはアナログの本家みたいな人なので、戸惑うことばかり。

「でも、これからは電通で仕事する以上、チームプレーを覚えてもらって、広告業界のわかりやすいところも経験してもらわないと」と思い、僕、局長としてゴルフコンペを企画したんですよ。

——局の方々、新鮮だったでしょうね!

杉山:そのゴルフコンペ、今考えると錚々たる面々だったですね。楽天の三木谷さんもいたんじゃないかな?

それで、ゴルフに縁のなかったデジタルキッズたちが頑張って出てくれたんだけど、僕がそこでなんと、うっかり人生初のホールインワンしちゃったんですよ(笑)。

——それ、奇跡ですよ(笑)。

杉山:ホールインワンって、ゴルフでは狙ってできることじゃない凄いことなんだけど、自分たちが主催するコンペでは、一番やっちゃいけないことなんですよ。お客様を招待しているわけだから。それで電通の担当役員からもひどく怒られてね。「お前、なんてことをしてくれたんだ!」って(笑)。

ただ、その事件があって少しだけ部下の僕を見る目が変わった気がしましたね。そこからやっと、チームとしてまとまってきた印象があるんです。
「この人、何か持ってるぞ」って思ってもらえたのかなあ。

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