コラム

メディア野郎へのブートキャンプ

「食べログ」と「ミシュラン」の違いからメディアにおける参加性と権威性を考える―源氏物語からニコ動まで。コンテンツを分類する3次元マトリックス(2)

share

以前から、雑誌というメディアは「編集長の王国」だと言われてきました。この言葉は、大げさに言えば、ある雑誌に載るものはその全てを編集長が「王様」のように決定しており、その雑誌の中は、編集長の意志で「王国」のように運営され、その全てに編集長による編集権のコントロールが及びうる、ということを意味しています(今の出版業界の現状でいうと、これは牧歌的でノスタルジックなファンタジーなのかもしれませんが)。

雑誌の編集プロセスでは、テキスト文の「てにをは」から表紙写真の選定までもが編集長によってコントロールされます。そして、「その雑誌に載るものは、編集長がその全てをコントロールできる」ということが前提になって、編集長はその雑誌への「編集責任」を負います。「神は細部に宿る」わけですから、「編集の神」であることが期待される編集長としては、ディティールまで気が抜けませんね。

そして、このような編集長と編集責任の関係を下敷きにして、いわゆる「カリスマ編集長」(VOGUE US版編集長のアナ・ウィンターが一つの典型)が生まれてきたのです。出版社のオーナーや社長の言う通りに雑誌を作らせていただきます。その代わり、内容には責任を持ちませんよ、というサラリーマン的態度では、「カリスマ編集長」の地位は望むべくもありません。

さて、あるメディアに十分な「権威性」があるいうことは、素人の読者目線から見れば「世の中の皆は、これを正しいと受け入れているのだから、いちいち、その内容についてチェックしたり、検証したりすることは面倒くさいから、やめといたほうがいいな」と思われてしまっている状態です。つまり、メディアにおける「権威性」とは、コミュニケーションの場面において、対峙する受け手を「思考停止させ、自分の言っていることを受け入れさせてしまえる権力」とも言えるわけです。これは大変なパワーです。

そして、政治の世界で言われるように、そのようにノーチェックとなってしまった「絶対的な権力は、絶対的に腐敗する」のです。「権威性」のあるメディアとして、長く世の中に君臨すると、ベタに言えば、ついつい、当事者たちの気が緩み、勘違いをし、その権威を利用しようとする輩からの誘惑に陥り、しがらみに絡めとられていくのが宿命です。

ミシュランにも、そういう傾向があるのではないか?という批判は付きまとっています。
例えば、調査員を16年間務めたパスカル・レミは自著で、3つ星レストランのなかには既にその価値がなくなっているにも係わらず、しがらみから星の数を維持している店もあると、暴露したそうです(ウィキペディア参照)。ミシュラン・ガイドでの評価内容に異議を差し挟もうにも、外部から見れば、その編集プロセスは極めて秘密主義のベールに包まれていて、その内容に有効な反論をしようにも、誰に向けて、どのように行えばいいのか分かりません。

そんな「権威性」メディアに比べて、その編集アウトプットの多くが、参加者に委ねられ、多様な評価レビューや評点スコアがあることを前提としたメディア設計がなされている食べログのような「参加性」メディアは、選挙のようにその編集プロセスがオープンであり、しがらみや恣意による操作の入る余地は、相対的には、少ないと言えます(インチキ・レビュー問題もありましたが、メディア全体として、食べログの内容を操作できていた、とは思えません)。

そして、これが参加性に重きを置くメディアの最大のメリットですが、編集プロセスを読者の参加に委ねることで、食べログ運営スタッフすら知らなかったようなレストランやマニアックな店も、ドンドンと掲載店に追加されます。権威性メディアにおいては、参加しているスタッフの脳味噌に入っている情報の合計以上に、編集としての成果物が「詳しく」「賢く」なることはできませんが、参加性に重きを置くメディアならば、読者の「脳味噌」を、そのメディア内容にフィードバックさせ、読者を単なる「受け手」「消費者」を超えた存在にまで高めることで、メディアと読者が、双方向で高め合う好循環のループを生み出していくという可能性が広がっています。

しかし、この予測が困難な自己増殖プロセスの結果に基づく成果物は、メディアを運営し、編集している側からは「コントロール」はできないのです。ある程度、影響を与えることはできますが、完全なコントロールはできないのです。そして、その内容を完全にコントロールできないのですから、完全に責任を取ることを求めるのは酷な話というものです。

さて最後に皆さん、に質問です。
グーグルの検索結果というのは、グーグルが「編集」した成果物と言えるでしょうか、言えないでしょうか? その検索結果については誰が「編集責任」を負うべきでしょうか。

私が考えるに、究極の参加性メディアの一つとも言えるのが、グーグルの検索結果です。あの検索結果は、ネット上に存在するウェブページ同士のリンク関係という、ある種の選挙投票的なオープンなプロセスに基づいて、主には決定されており、グーグルは、その検索結果が恣意的に操作されることを何よりも嫌っています。

このことに関して、直近で、非常に興味深い事例がありました。グーグルで、ある特定の個人名で検索しようとすると、グーグルの検索窓や検索結果に、その人にとって事実無根のネガティブな情報(犯罪を想起させる)が、関連検索ワードとして表示されることがあったそうです。その人物は、グーグルに、検索結果の削除を求めて訴え、東京地裁はグーグルに関連ワードの表示差し止め命令を出しました。しかし、グーグルはこれを拒否し、「日本の法律に従う義務はない」とまで回答したようです。

グーグルとすれば、アルゴリズムを開発し、クローラーを走らせ、検索エンジンを提供しているだけで、特定の一個人を貶める「意思」を持ち、そのような検索結果や関連ワードを出しているわけでないでしょう。そういう意味で、「意思」を持って、検索結果(や関連ワード検索)を「コントロール」していない以上、それを削除する責任はない、というのが彼らの主張したいロジックだと想定されます。
(一方、削除を求める側としては、グーグルが持っている影響力の結果、実害が発生していること。そして、グーグルは検索結果を削除しようと思えば、できるはずだ、という意味において、検索結果は当然、コントロール可能なのだから、グーグルはそれを削除する責任がある。という見解でしょう)。哲学的にいうと、データやアルゴリズムは「自由意思」を持ち得るのか?という極めて、SF的に深い論点を巡る事件とも言えますね。

やや脱線しました。私が今回コラムで言いたかったことをまとめます。

特定の個人が、「意思」をもって、成果物をできうる限り、コントロールしようとし、その成果物が、受け手から(盲目的に)信頼されるところにこそ、権威性メディアの特徴があります。これは社会において、影響力を持つことこそがメディアの存在意義という意味で、メディアにとってはとても意味のあることです。

しかし、権威性メディアの対極にある、参加性メディアには、そのオープンさや集合知的な部分に、大きな可能性が存在します。さはさりながら、その参加性メディアが発揮する、全体としての「意思」や「責任」が、誰に帰属されるべきなのか?を巡っては、まだ全く答えが出ていません。

まさしく、現在進行形で進んでいる問題であり、2010年代のメディアの在り方を巡る興味深い論点だと、筆者は思っています。
みなさんは、どう考えますか?ご意見・ご感想をお待ちしております。

田端信太郎「メディア野郎へのブートキャンプ」 バックナンバー

もっと読む

Follow Us